「後北条氏(小田原北条氏)は他の戦国大名に比べて地味だからなかなか話題にならない」という話をよく聞きますが、それはなぜなのか、ということをいつも疑問に感じています。
地方の小勢力が既存の名門勢力(今風に言うとエスタブリッシュメント、ということでしょうか)と戦いを繰り返しながらのし上がっていき、最後は時代の波に飲み込まれて一気に滅亡してしまう、という後北条氏の歴史はむしろドラマチックだし、変化の激しい現在だからこそ受け入れられやすいのではないかと思います。
実際には後北条氏の祖・北条早雲(伊勢盛時)は室町幕府の名門・伊勢氏出身であるといわれていますが、それでも関東にあっては余所者ですし、関東には堀越公方・古河公方・関東管領上杉氏などのエスタブリッシュメントがひしめいていました。
そして北条氏はそれらの勢力と抗争を繰り返し、最終的には関東に覇を唱えます。
最近は田中角栄ブームみたいですが、それなら同じような歴史を持つ後北条氏ももっと注目されてもいいのかな、と密かに思っています。
それはさておき、最近昭和史に関する本を読んでいたら、ふと後北条氏と大日本帝国の歴史には共通点が多いのでは、なんてことを考えました。
例えば、
・後北条氏も大日本帝国も地方の小勢力から一大勢力を築いた。
・両者とも、自勢力をはるかに上回る巨大勢力との戦争は望んでいなかったが、最終的には交渉がうまくまとまらず、紛争状態になってしまった(北条氏政も豊臣氏に従属の意思を表明していますし、昭和天皇も戦争は望んでいなかったとされています)。
・その交渉の過程で、自勢力内の意思統一ができずまとまりがなかった。
・紛争状態に入るきっかけをうまくかわせなかった(豊臣政権からの最後通牒にせよ、ハル・ノートにせよ、うまくかわす方法はあったそうです)。
・既存の同盟勢力との戦争状態になっていた(徳川氏は小田原征伐の直前まで北条氏と同盟しており、英国も第二次世界大戦の少し前までは日英同盟を締結していた)。
・頼りにしていた同盟者が自分より早く戦線離脱し、一手に戦争を引き受けることになった。
・負け戦が多かったが、局地戦では意地を見せたケースもあり(硫黄島の戦い、忍城の戦い、韮山城の戦い、など)。
・第二次世界大戦時のABCD包囲網を北条氏に当てはめるなら、アメリカ:豊臣家、イギリス:徳川家、中国:上杉家、オランダ:佐竹家みたいな?
※豊臣政権の前身である織田政権と北条家はもともと友好関係にあった。徳川家とは小田原征伐の直前まで同盟関係。上杉家とは越相同盟時を除けば仇敵の関係。佐竹家と北条家も長年の敵対関係で、佐竹家は北条家と伊達家という敵対勢力に挟まれ窮地にあった。
・終戦を決断した時には、すでに無条件降伏するしかない状況になっていた(本拠地小田原城の包囲、原爆投下)。
・一度の敗戦で、建国以来の成果物をほぼすべて失った。
・敗者側の責任者は勝者によって裁かれた(北条氏政・氏照は秀吉の命により切腹、主要戦犯は東京裁判で死刑判決)。
これらの内容は滅亡に向かうものに共通のものもあるので、後北条氏や大日本帝国固有のものばかりでもないでしょうが、それでもこれほど共通点があるのは意外でした。
これを見ると、北条氏の歴史も見せ方によっては人々の関心を引き立てられるのではないかと思ったりします。
とりあえず、せっかく思いついたので、妄想も交じってますが書き綴ってみました。
せっかく後北条氏推しをしたので、ついでに最近訪れた後北条氏ゆかりの場所の写真を載せておきます。
これで少しでも多くの人に北条氏に関心を持ってもらえれば嬉しいです(笑)
【八王子城】
八王子城は北条氏康の三男・北条氏照の居城で、北条氏の武蔵支配と西の守備の拠点となりました。
豊臣秀吉の攻撃を受けたときは、氏照は小田原城に籠城し、城は家臣たちが守っていましたが、奮戦むなしく落城。
落城の際には凄惨な光景が繰り広げられたようで、悲話も残っています。
城主の活動・生活の場である御主殿入口。
落城時に家臣や女性たちが身を投げたと伝わる御主殿の滝。
ホラースポットとしても有名です。
外部と御主殿をつなぐ曳橋。
【韮山城】
韮山城は北条氏康の五男・北条氏規の居城で、豊臣秀吉による小田原征伐時には最前線の城として激戦を繰り広げ、城主・氏規の指揮の下、寡兵ながら数か月の籠城に耐えた堅城です。
坂の厳しさ・道の狭さからも攻めにくさが伺えます。
坂道は長く、急で、道も細く、登るのが大変でした。
険しい道のりを越えて本丸に上ると、見事な眺望でした。
ついでに、韮山城近くにある世界遺産・韮山反射炉にも行ってきたので、こちらも。
韮山反射炉と富士山という二つの世界遺産が並んでいます。