忠義と仁愛を旨としたサラブレッド
立花宗茂は、大友家の勇将・高橋鎮種(のち紹運)を実父に、同じく大友家の柱石である立花道雪(戸次鑑連)を養父に持つ、いわば戦国時代のサラブレッドであった。しかし、宗茂の人生の少なくとも前半は苦労の連続であった。そのため、人のありがたさがよくわかる人格が形成されていった。
宗茂は1567年に、鎮種の長男として生まれる。器量に優れ、また嫡男でもあることから鎮種にとっても大事な後継者であったのだが、同じく大友家の重臣である立花道雪が、彼に息子がいなかったことから、娘の誾千代の婿養子にほしいと鎮種に要請した。
大事な後継者でもあることから、鎮種は最初は断っていたが、度重なる道雪の要請についに折れ、1581年、宗茂を婿養子に送り出すことになった。
渋々といったところではあろうが、送り出すにあたって鎮種は宗茂に対し、「養子になった以上は立花(戸次)の人間なのだから、高橋家と立花家が敵対することになったら、立花家の人間として戦うように」と厳命している(もっとも、その後も高橋・立花両家は盟友として戦っていくことになる)。
その後、立花家待望の婿養子、ということで甘やかされたかというとそうではなく、養子入りしても厳しく育てられたようである。
宗茂が歴史の表舞台に立とうとした頃、すでに主家大友家は斜陽の状態にあった。大友宗麟の治世の前半は彼の優れた器量と有能な家臣たちによって大友家は積極的に勢力を拡大していった。しかし、宗麟が驕ったうえ、キリスト教に入信し家臣団に亀裂が入り、さらに中国の毛利家が九州北部に侵攻してくるようになると、次第に大友家にも陰りが現れてきた。
そして、その大友家に致命的な打撃を与えたのが1578年の耳川の戦いである。この戦いでは九州南部の島津家と北部の大友家の決戦となったわけだが、宗麟は家臣団たちの諫言も聞かずに決戦を行い、大敗北を喫し、有能な家臣たちの多くを失うこととなった。その後、大友家は南の島津家、西の竜造寺家、そして内部の反乱など多くの敵を抱えることになった。まさに、内憂外患である。宗茂はこのような状況で成人し、戦いの中でその青春期を過ごすことになってしまった。
1585年、高橋紹運とともに大友家を支えていた立花道雪が死去。この頃には竜造寺家も島津家の傘下にあり、九州統一を狙う島津家の攻勢が激しくなっていた。翌年には島津家が大友領筑前に侵攻。父の拠る岩屋城も島津軍に包囲された。宗茂は父を救援しようとするが、紹運は救援を拒否し、島津軍の降伏勧告も拒否し、30倍もの敵軍を相手に奮戦し、致命的な被害を与えた後、自害した。その後、島津軍は宗茂のいる立花城も包囲するが、なんとか死守する。
紹運・宗茂父子の他、志賀親次などの必死の抵抗により、豊臣軍の援軍まで大友家は守り抜かれ、その滅亡を避けることができた。戦後、その忠義と武勇を豊臣秀吉に賞賛されることになるが、その際に彼の性格をエピソードが残っている。
秀吉に賞賛された宗茂は、「羽柴」の姓と従四位の位を授けられる。しかし、宗茂は官位は固辞した。主君の宗麟が従五位であったからである。主君より高い位はもらえない、ということである。宗茂の忠心が良く表れている話である。なお、宗茂とともに大友家を守り抜いた志賀親次も秀吉に賞賛されている。
その後、豊臣政権下では秀吉に気に入られ、活躍した。朝鮮出兵にも従軍し、目覚しい活躍をする。が、秀吉が亡くなると彼の運命はまた二転三転することになる。
彼は、大友家への忠義を見てもわかるように、恩義に忠実な人間であった。そのような彼であるから、関が原の戦いでも石田三成率いる西軍に参加する。逆にこのことからも三成の忠義もわかる。宗茂は1万5千の兵を率いて、近江大津城に京極高次を攻撃し、大津城を開城させるが、高次の粘り強い抵抗により、結局関が原での戦闘には参加できず、そのまま領地に帰国することになる。
戦後、改易された宗茂はまず熊本城の加藤清正に庇護される。しかし、清正に迷惑がかかると思ったため、放浪のたびにでる。この時、家臣の多くが共に旅に出ることを希望したが、物理的な限界のために人数を絞ることになった。このあたり、主君と家臣のお互いの絆の強さが表れている。
こうして、諸国放浪の旅に出た宗茂だが、特に何をするわけでもなかった。収入があるわけでもなく、共に放浪してきた家臣が必死に主君を養っていた。こうした中で、宗茂が家臣を気遣わないはずがない。こうして日々、苦しいながらも主従仲良く過ごしていた。そんなある日、江戸幕府の将軍・徳川秀忠から呼び出しを受ける。
秀忠は、主従の仲睦まじいという話を聞いて、宗茂の話を聞くために呼び出したのだった。当時は戦国時代も終わって新たな秩序ができ始めた時代。戦国の弱肉強食の論理から江戸時代の忠義の論理を浸透させるために、彼の話を聞いた秀忠は、宗茂の罪を許し、5000石の旗本に取り立て、さらに奥州棚倉1万石の大名に戻した。彼の忠義を顕彰することで模範としようとしたのだった。
彼はもともと九州柳川13万石の大名であった。しかし、不満ももらさず奥州まで行った。そのあたりも秀忠を感心させたのであろうか(ただし1万石の大名復帰でも恵まれている方である)、柳川の田中家が跡継ぎ不在で改易されると、その後釜に宗茂が返り咲いた。柳川に戻ると、領民や旧臣が彼を出迎えたという。宗茂も、長い間離れていた家臣の名を一人一人呼んだという。
宗茂は秀忠やその子家光によく信頼され、その相談役としてよく話し相手になった。晩年には島原の乱にも出陣、昔日の勇姿を見せた。1642年死去。享年76。
宗茂が一番苦労したのは浪人時代であり、その頃のエピソードが最も多く残っている。そのいくつかを紹介する。
彼が放浪する時、行動を共にできなかった家臣は帰農して、その作物を送って主君を養った。共に行動した家臣も働いたり物乞いをしたりして主君をなんとか養っていた。
そんな宗茂は、柳川に復帰したとき、屋敷を大きくすることをしなかった。できるだけ狭くして主従の距離を縮めたいということである。ここまでくると相当の主従愛である。また、宗茂は「我が家に監査役は無用」と言い切っており、このあたりも立花家の家風が表れている。
子どもの頃に、家臣同士の争いに遭遇し、周囲の人間が退避を進める中、「周りが騒ぐからかえって争いをやめにくい。主家の自分がいるから気まずくなって喧嘩も収めやすいだろう」といって、そのとおりになるなど、幼少の頃から人間愛に富んでいた。
また、徳川家光に「もし関が原が長引いていたら祖父(家康)を討ったか」と聞かれて「もしかするとそうかもしれません」と応じ、「まことの武人である」と賞賛されている。