加藤清正

膂力にも魅力にも秀でた熊本の守護神

 加藤清正は虎退治と熊本城で知られる、豊臣家有数の勇将である。彼は若い頃から豊臣秀吉に仕え、秀吉の出世と共に栄光の階段を駆け上っていった。彼は武勇も人並みはずれていたが、他人に対する思いやりも彼の人気のもとになった。

 加藤清正は秀吉の親類であり、近江で秀吉に仕えた(但し、一般には尾張組に分類されている)。長じるにしたがって合戦にも出陣し、武功を重ねている。

そんな彼が一躍歴史の表舞台に登場したのは、秀吉が柴田勝家と戦った賤ヶ嶽の戦いである。この戦いで彼は抜群の戦功をあげ、賤ヶ嶽の七本槍と讃えられる。他に福島正則加藤嘉明片桐且元などが七本槍のメンバーとなっている。

 その後も秀吉に従軍、九州遠征後に3千石から一挙に20万石近くまで加増される。この時期、秀吉の子飼いで一気に大名になったものが多いが、その中で破綻した者も多いのだが、清正はそういうことはなかった。武勇だけでなく、その地域の旧臣、住民への思いやりがあり、経営の能力もあったのだろう。もしかしたら反発しながらも石田三成らに影響を受けていたのかもしれない(実際、元々は仲が良かったという説もある)。

 その後は朝鮮出兵にも出陣、先鋒として朝鮮各地の要所を陥落させていく大活躍を見せる(虎退治の話もこの頃のこと)が、落ち度を三成が報告、秀吉に叱責され、日本に呼び戻され謹慎する。この時に彼の秀吉への忠誠を示すエピソードが残っている。

 清正が謹慎していた頃、京都で大地震が起こった。阪神大震災の折には現代の建築技術も地震には勝てないことを示されたが、400年以上前のこの時代のこと、当然のことながら被害は甚大、秀吉の居城・伏見城も崩壊した。その報を聞き、清正は謹慎中ながら秀吉の下に真っ先に駆けつけ、警備にあたった。その忠誠心に感じた秀吉は清正を許すことにした。

 秀吉が死去すると、他の武功派武将と語らって石田三成を襲撃しようとするが、徳川家康のところに逃げられ果たせなかった。関が原の戦いでは東軍に味方し、小西行長の居城・宇土城を攻撃するなど活躍し、戦後肥後54万石を領有する。この時、西軍の将・立花宗茂をかくまうなど豊臣恩顧の武将としての動きをしている。

 その後、豊臣家を滅ぼそうと画策する徳川家と豊臣家の間を取り持つなど、豊臣家存続に奔走するが、1611年に死去した。

 清正のエピソードは武人としてのものと人情人としてのものに分けられる。両方を紹介していこう。

 朝鮮出兵のとき、武将たちが集まる会合に、清正は一人だけ甲冑を身につけ、食糧を携帯していた。他の武将が不審に思い、その意図を尋ねると「大将が率先して緊張感を維持しておかないと、下の者が乱れるから常にこのような装備をしている」と。

また、熊本城にはイチョウや栗の並木があり、畳は芋の茎でできていた。これは、籠城した時や不作の時に備えているのだという。清正はどのような時も常に色々な事態を考え行動していた。ちなみに清正は熊本城を建設し、築城の名手として知られている。

 清正の人情を表すエピソードとしては、関が原後に立花宗茂をかくまった、家臣を雇う際に、経験のある老人や、意気の上がる中年をできるだけ雇い、家内の若者をくさらせないようにした(若い人間を外部から雇うと、自分たちはそんなに頼りないのか、となる)、などという話が残っている。

 その一方で、朝鮮戦役では商人出身の小西行長をからかったり、文治派の石田三成とは決して仲良くしようとしなかった(上述のように、元々仲は良かったとの説もある)ことなどは、彼の頑固さ、偏狭さを表しているともいえる。どうも価値観の違う人間とは付き合えなかったようだ。

 清正の死後、恐れる者がなくなった家康は、豊臣家への攻勢を強くする。1614年には大坂冬の陣で豊臣家と交戦、翌15年には大坂夏の陣で豊臣家は滅亡する。その後、福島正則は改易、加藤家も息子・忠広の代に謀反の疑いで改易させられる。

 徳川の世を経て、三成は奸臣、清正は忠臣として語られる。しかし、実際の行動とその及ぼした影響を考えると、どちらが果たして忠臣だったといえるだろうか。

こんな話もある。
関ヶ原後、清正と福島正則らが家康から名古屋城(家康の息子・義直の居城)の普請を命じられ、正則が「何故家康の息子のためにこんなことをしなければならないのか」とこぼすと、「嫌なら領地に帰って戦の支度をすればいい」と返したとか。

現実はなかなか厳しいようだ。

 ともあれ、清正は熊本を中心に絶大な人気を誇り、今でも「せいしょこ(清正公)さま」と呼ばれ崇拝の対象になっている。
加藤家改易の後に熊本に入封した細川忠利もその人気に配慮し、入封時には清正の位牌を掲げ、「あなたの城地をお預かりします」と言ったと伝わっている。

 そして2016年の熊本地震で熊本城も含め被害を受けたが、清正と熊本城は今もなお熊本の人たちの心のよりどころとなっている。

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