国民の幸福と世界平和に心を砕き、十字架を負われた仁君
昭和天皇は、その名の通り、昭和時代を形成してきた第一人者であった。日本の国体は第2次世界大戦を境に大きく変わったが、その中でも、天皇の心がお変わりになることはなかった。常に誠実を旨とし、平和を愛され、国民を愛された。
昭和天皇は、1901(明治34)年にお生まれになった。御名は裕仁(ひろひと)。父親は大正天皇、明治天皇は祖父に当たる。昭和天皇は、宮中の人々の愛を受け、健やかに育たれた。祖父の明治天皇も昭和天皇をたいそう可愛がられたそうだ。ちなみに、たいていの人は明治天皇の前に出ると萎縮してしまうらしいが、昭和天皇はそのようなことがなかったらしい。秩父宮は一つ下の弟で、二人は喧嘩することもなく、大の仲良しだったという。
昭和天皇が幼い頃のエピソードが残っている。ある時、伊藤博文や山県有朋など、明治の元勲たちが宮中を訪れ、親王(昭和天皇)にも会った。普通の子供はいかつい(!?)大人に囲まれると萎縮してしまうが、親王はそのようなこともなく、いろいろ質問していたという。ちなみに秩父宮はびっくりして出て行ってしまったらしい。
ご成長なさってからは学習院初等科に入学なさった。学院長には乃木希典大将が任命された。乃木は聖将と称された軍人で、私心なく清廉なことで知られていた。昭和天皇の精神の奥底には、乃木から学んだことが流れているように思われる。
乃木が昭和天皇に語ったことをいくつか挙げてみる。
「殿下ははどうやって学校に来られますか」「馬車で来ます」「これからは雨の日でも歩いてきてください」 その日から、親王はどのような時も歩いて登校するようになった。
「殿下は山に登るときはどのように登りますか」「登る時は歩き、降りるときは走ります」「これからは逆にして、一歩一歩踏みしめて降りてください」
「穴が開いた服を着ているのはよくないことですが、つぎはぎをあてるのは恥ずかしいことではありません。穴が開いたらつぎはぎをあてて着てください」
このように、乃木は厳しくも温かい教育を施した。しかし、乃木は明治天皇に殉死した。親王は祖父と恩師を同時に失われてしまったのだ。明治天皇の死に伴い、父親王が天皇(大正天皇)となり、親王は皇太子となられた。
初等科を卒業なさると、東宮御学問所で学ばれることになった。学長は、日本海海戦で有名な東郷平八郎。東宮では有名な学者たちにつき、よく学ばれた。聡明で、素直な生徒だったという。
ご婚約の後、ヨーロッパに遊学なさった。将来の天皇として、広い見識を身につけるためである。皇太子は、ロンドンに立ち寄ったが、そこでのエピソードがいかにも、昭和天皇らしい。
アソール公爵という貴族の屋敷に宿泊なさったとき、ダンスが行われた。公爵は、牛飼いの人の妻と、夫人は農家の人と組んで踊っていた。皇太子は「日本もあのように貴族や資産家も身分を越えて普通の人々と仲良くできるなら、素晴らしい国になるのだが」と語られた。後に、皇太子はこの精神のもと、国民に接せられることになる。
帰国なさった時、大正天皇は病で国政をみることがおできにならない状態であった。そこで、皇族会議が開かれ、皇太子が摂政の任に就くことになった。
この頃、第一次世界大戦による好景気が一変、不況に陥っていて、日本の状態も悪かった。しかも、さらなる困難が日本を襲う。関東大震災である。大震災の被害は甚大なものであったが、その傷が言えた頃、婚約していた良子姫とご結婚なさった。
療養していた大正天皇は、結局大正15年にお亡くなりになり、年号は昭和になった。昭和元年は1週間しかなかった。
昭和天皇即位の際にも、いかにも、というエピソードがある。
天皇即位を祝して、学生の行進が行われた。運悪く、その日は雨だった。濡れて歩くことになるだろう学生に対して天皇は「濡れるなら雨合羽を着るように」というお言葉をかけられた。そして、「学生が濡れているのに、私のところだけテントを張るわけにはいかない」と、学生とともに濡れることを選んだ。これを見て、学生たちは感激し、雨合羽を脱いだ。これを見て、天皇もマントを脱がれた。このように、天皇は人とともに苦労をなさる道を歩んでこられた。
しかし、このように、人を思いやり、皆とともに栄えようという天皇のお志とは違った方向に国際社会は動いていた。日本もその動きに加担していたが、その直接の行動は、軍部によって行われていた。張作霖爆破事件(満州某重大事件)などで、日本は満州、さらには中国に対する干渉を強めていった。この事件は、中国の出先の軍隊である関東軍の大佐が独断で行ったものだが、中央が罰せず、うやむやにしようとしたため、天皇は、首相であった陸軍大将・田中義一に対して、「干渉拡大をしないとの私との約束が違う、軍の決まりを守らせられないのか」と強く非難なさった。
しかし、天皇のお心は軍部、特に関東軍に伝わることはなかった。関東軍は「一時的に天皇のお心に背いても、結果が陛下のためになればそれこそが大忠である。陛下のおっしゃるとおりにしか動かないのは小さな忠義に過ぎない」という論理を振りかざし、中央の統制さえも無視していた。
そして、満州事変が起こった。この結果、中国軍を満州地域から追い出す。さらに、上海に進出。またも中国軍と衝突することになる。天皇は白川義則陸軍大将を調停の使者として派遣する。そして、一応調停することに成功する。おかげで、白川大将は陸軍内部から嫌われたが、天皇は非常にお褒めになられた。しかし、この白川大将も、朝鮮人の投げた爆弾で死亡する。残念ながら、平和に尽力した人物も、やはり朝鮮の人から見れば祖国の敵だったのだ。
さらに、関東軍は満州国を建国。ラスト・エンペラーとして有名な溥儀を皇帝に擁する。もちろん、溥儀は関東軍の傀儡だった。天皇の名で進められたこれらの政策だったが、天皇自身は不満に思われていた。満州国が国際社会に認められず、国際連盟を脱退した時も「たとえ連盟を脱退しても、国際の平和のために尽力する姿勢を見せるように」とおっしゃっている。
昭和11年には2・26事件が起こる。この事件により、高橋是清蔵相や、斎藤実内大臣が殺害される。幸い、岡田啓介首相は、何とか難を逃れた。陸軍の若手将校が起こした反乱(本人たちはそう思っていないのだが)だったが、陸軍上層部はうろたえていた。一方、天皇や海軍は即座に事件の張本人たちを反乱軍と認定し、鎮圧の方向に向かっていった。この事件は、陸軍の統制力の弱さと、海軍の団結力の強さ、天皇の決断力の強さを明らかにした。ちなみに、この時の海軍の最高責任者が、後に海相・首相となる米内光政である。
この後も、陸軍の暴走が抑えられることはなかった。翌年、昭和12年には、盧溝橋事件が勃発。以降、日中戦争に突入、太平洋戦争終結まで続く、泥沼戦争に陥った。
天皇はもともと、中国に日本の軍隊がいることに反対であられたらしい。中国に日本の軍隊がいるから争いが起こるのだという理由からである。なお、戦後の首相となるジャーナリスト・石橋湛山も、経済的な理由から帝国主義(植民地主義)に反対している(もちろん、石橋が平和を望んでいなかった、ということとは別の話である)。
しかし、結局、天皇の危惧が当たり、戦争になってしまった。外務省などは、広田弘毅らを筆頭に、必死に戦線拡大を阻もうとしたが、その都度陸軍にその努力を無駄にされ続けてきた。さらにまずいことに、陸軍は国境を侵したとして、ソ連にまで攻撃を仕掛けた。張鼓峰事件である。この攻撃で日本軍は痛烈な打撃を受ける。
これでも懲りない陸軍は、次第に戦線を拡大する。そのような中、陸軍は勝手に日独伊防共協定を締結する。天皇の許可もなくである。海軍、特に米内光政や山本五十六・井上成美などは大反対であった。理由としては、米英とは戦って勝てない、また、石油が入ってこなくなったら船も飛行機も動かせない、ドイツは信用できない(ドイツの指導者・ヒトラーはその著書「我が闘争(マイン・カンプ)」のなかで、日本民族を軽蔑しているらしい。日本語版では削除されているが、ドイツ語版ではそのような箇所があるらしい)ということであった。天皇も同じご意見であった。そして、この問題に対して、陸軍は十分な回答をしなかった。それなのに、勝手に独伊と同盟を結んだのだ。このことは、米英との手切れを意味すると言ってもよかった。
しかし、海軍や天皇の危惧は当たってしまった。ドイツが勝手にソ連と不可侵条約を結んだのだった。時の首相・平沼騏一郎は「欧州情勢は複雑怪奇」と言って辞任した。後任は阿部信行陸軍大将。しかし、阿部首相も、結局時流に流されたまま、辞任。次の首相は、海軍大将・米内光政である。
ソ連と不可侵条約を結んだドイツは欧州を席巻していった。その結果、独伊と同盟を締結すべきである、という意見が強くなった。外務省や海軍でさえ、その傾向が強く、後に外務事務次官となり、「空飛ぶ外交官」としてその頭脳・人柄を讃えられた牛場信彦でさえ、同盟説に協調したらしい。しかし、米内らは断固として反対。結局、広田内閣時に復活した軍部大臣現役武官制を濫用し、米内内閣を総辞職に追い込む。もともと、米内は首相になるつもりはなく、辞退するつもりだったらしいが、天皇に「お願い」され、就任したらしい。しかし、その政治的野心のなさ、政治交渉の不得手さから、結局陸軍の横暴をとめることはできなかった。
その後、第二次近衛文麿内閣が発足。この内閣により、昭和15年、ついに日独伊三国軍事同盟が締結される。しかし、近衛は米英との友好の手立てを考えていた。何とか、米英と手切れにならないように、米英と必死の交渉を行った。しかし、外務大臣は親独派の松岡洋右。彼は米英より三国同盟を重視していた。何とか米英と友好関係を維持したい天皇は、近衛に命じて、松岡を除いて再組閣するようにお命じになった。こうして、松岡が除かれ、再び米英との交渉に取り掛かった。
しかし、三国同盟を締結している日本が米英と手切れをしないためには、厳しい条件を付けられることが予想される。案の定、中国からの撤退を要求されるが、陸軍が拒否、近衛内閣も総辞職し、後任に東条英機が就任した。この東条に関しては、天皇も信頼なさっており、東条自身も、必死に戦争回避の手を探っていた。しかし、米国が最後通牒とも言える「ハル・ノート」を打診、満州からの撤退を要求したためついに、戦争に踏み切らざるを得なくなった。開戦の日、東条は大泣きしたという。
真珠湾攻撃は成功したものの、長期戦になるにつれ、日本軍は次第に押されていく。ミッドウエー海戦での敗戦を境に日本側の戦況は次第に不利になっていった。その直後には山本五十六連合艦隊総司令官が戦死、ガダルカナル島など、東南アジアでの拠点も次々と失っていった。そして、沖縄上陸、原爆投下。
最後は、天皇ご自身のご決断、いわゆる御聖断で、ポツダム宣言受諾、つまり、無条件降伏(厳密には日本が無条件降伏したのではなく、軍隊が無条件降伏した)を決定した。昭和20(1945)年8月15日、大日本帝国はポツダム宣言を受諾した。
敗戦に伴い、日本は連合軍が占領することになった。この時、天皇には二つの問題があった。一つは、天皇の戦争責任問題、もう一つは、天皇制の問題である。戦争責任に関して、天皇は自ら戦争責任を負う旨、マッカーサー総司令官を訪問され、お伝えになった。この申し出にマッカーサーは驚き、かつ、感銘を受けたという。
マッカーサーとの会談のときの写真があり、それには正装・小柄な天皇と、普段着で大柄なマッカーサーが対照的に映っていて、いかにも敗戦国の元首という印象を受けるが、それは会談前に撮られたものであり、会談後であれば別の写真になっただろうと言われている。
このとき撮影された、昭和天皇とマッカーサーの写真。
昭和天皇が正装で直立不動であるのに対し、マッカーサーは普段着で、腰に手を当てリラックスしている。 しかも、マッカーサーは身長が高いだけでなく、足も長い!! |
結局、天皇の戦争責任は、政治的な配慮もあって、追及されなかった。天皇制に関しても、廃止すべきという意見が国内外にあったが、これも政治的配慮で存続することになった。
また、戦犯に関して、日本政府は、日本側で、天皇の名で裁判を行いたいという意見であったが、天皇は「戦犯といえども、日本のためを思い戦ってくれた人間であり、その者たちを自分の名では裁けない」というご意見だった。どちらにせよ、日本側が裁判をさせてもらえたとは考えにくいが。
戦後、新たな憲法、日本国憲法が発布されることに伴い、天皇は、いわゆる人間宣言をなさった。「人間である」という内容はないが、とりあえず、人間宣言といわれている。しかし、国民との距離が近くなったのは事実であろう。
その後、天皇は敗戦の中で復興を遂げようとする国民を励まされるために全国に行幸なさった。また、有名な天覧試合など、スポーツの繁栄にも尽力なさった。なお、天覧試合では、長嶋茂雄氏・王貞治氏、いわゆるONの初のアベックホームランや長嶋氏の村山実選手からのサヨナラホームランな(村山氏は死の寸前までファールだと言い張っていたが)ど、劇的なシーンが多くあった。もちろん、この試合は阪神-巨人戦である。
天皇は、日本国内を精力的に訪問なさっただけでなく、外国もよく訪問なされ、日本の象徴として、国際親善の役割をよく担われた。「天皇陛下の役割は大使100人に勝るとも劣らない」とさえ言われることもあった。しかし、良くも悪くも、天皇には戦前の軍国のイメージが付きまとう。そのため、外国で憎悪の念をもつ人々に遭遇なさることもあった。しかし、そのような時も笑顔を絶やさなかったと言われる。
そのように、生涯国民の幸福と、国際平和を希求なさった天皇であったが1989年、昭和64年1月5日に崩御なさった。結局、最後まで希望していた沖縄には訪問できなかった。ちなみに、天皇のご回復を祈り記帳した人は1000万人、天皇の棺を見送った人は60万人に上った。いかに国民にお慕いなされていたかがよくわかる。
ちなみに、昭和天皇には、天皇としての顔と、もう一つ、学者としての顔があった。天皇は生物学の学者として、著書や論文もある。天皇としても、余計な気遣いのいらない学者としての顔の方が、気が楽でよかったのかもしれない。
(元来歴史に興味があったが、政治的な要素があるため、歴史に関する研究は控えられたとのことである。)
日本は、戦後、天皇の御意思の通り、ようやく平和国家への道を歩むことができた。そして今、国際協力のパロメーターの一つであるODA拠出金では、世界第2位となっている。ODAに関しては、いろいろ批判はなされるものの、日本が昭和天皇の願いの通り、平和国家として国際社会に多大な貢献をしていることは間違いないだろう。