大石内蔵助

君の仇を討つため、全てをかけた、忠臣蔵の主人公

 大石良雄(内蔵助)は1659年に赤穂藩の家老の家に生まれた。学者の新井白石や老中の柳沢吉保もこの前後に生まれている。良雄は21歳で家老となる。良雄は山鹿素行という有名な軍学者に兵法を学んだと伝えられ、浮世絵などで描かれた47義士の衣装(特に太鼓)も山鹿流である。実際にはかなり怪しいらしいが。

大石の人柄として有名な言葉が「昼行灯」。普段はあまり目立たない、という程度の意味だが、赤穂城明け渡しに関する諸問題を見事に片付け、討ち入りも見事にやってのけたのは、いざというときにはやる!という人だったのだろう。こういうタイプの人は、結構かっこいいかもしれない。ただ、気づかないものなのだが。また、彼は結構女好きだったようだ。軽く見えるタイプの人だったのかもしれない。

有名な吉良上野介傷害事件は1701年に起こった。赤穂藩の藩主・浅野長矩が旗本(特に家格の高い高家であった)の吉良上野介に切りつけた事件だ。事件の理由は諸説ある。一番有名なのが、浅野が朝廷の使者の接待役を命ぜられ、その儀礼などを、指導役の吉良に尋ねようとしたら吉良が賄賂を要求したのに対して浅野が拒否して、浅野が面目を失い、遺恨に思った、という説。他にも、本当に性格が合わなかったという説や、浅野が節約を第一として、吉良の計画とどうしても寄らなかったため、浅野が恥をかいたなどという説もある。

理由はとにかく、殿中(江戸城内)で刀を抜いて切りかかった浅野には即刻切腹、領地召し上げという処分が下される。つまり、殿様の命だけでなく、家臣の給料もなくなる、ということだ。

ここで初めて良雄の力量が発揮される。まず、藩内の混乱を防がねばならない。彼は筆頭家老として、家臣団の動揺と共に領民の動揺も抑えなければならない。太平洋戦争のときもそうだったが、政権や国が倒れる時特に重要になるのが貨幣の問題だ。
当時、どの藩も財政が苦しく、藩札という藩内にのみ流通させることができる紙幣を発行していた。つまり、藩が苦しいから紙幣を発行しまくったということだ。領民も藩が潰れるということは考えていないから、普通に使っている。ということで、その信用を供与している藩が潰れると、これはもう大問題。藩内だけでなく、近隣諸国にも経済的な混乱が波及する恐れがある(領民は近隣の藩の人とも交流があるはずだから)。普段からリスクを分散しておけばいい・・・、というのが経済学者のほぼ一致した意見(つまり平時から資産を円だけでなくドルやユーロ、金などに分散しておくとよい、ということ)なのだが当時そんな話があるわけはなく、藩内は大混乱。藩札と金貨との交換が求められた。この引き換えや、幕府に対す赤穂城引渡しなどを整然と行っている。これには藩内外の人が驚いた。何といっても「昼行灯」だったのだから。

討ち入りを決するまでの彼の心境には諸説ある。本当は浅野家再興あるいは再就職を考えていたが、浅野家の完全な取り潰しが決定したので、討ち入りをして世論の賞賛を勝ち取ることで他家に仕えようとしていた(もちろん就職云々に関しては自分ひとりだけでなく家臣団全体のこと)という説。一般に流布している、主君の仇を討ちたかった、幕府に抗議したかった、という説などがある。
ただ、一つ言えるのは、当時は戦乱の恐怖も遠のき、世論が仇討ちという物騒なことを求めていたということだ。結局、大石もこの世論に逆らい難かったのかもしれない。だとしたら、世論の形成と言うのは恐ろしいものだ。

ともかく、大石を中心とした47人は吉良邸への討ち入りを決意する。1年もの間、綿密に性格に情報を収集し、計画を練り上げていく。少し前に由比正雪の乱があったが、密告によって計画は潰えてしまった。このような計画は密告によって崩れてしまうことが多いのだが、彼らは一年間結束し裏切り者を出さない。このあたり、大石のリーダーシップがいかに優れていたのかを示している。また、彼らが利害関係以上のもので動いていたのではないかと思わせる。ただ、この時期、大石はできるだけ討ち入り参加者を絞っている。無駄な犠牲を出したくない、という思いやりもあっただろうが、警戒していたのかもしれない。

そして1702年年末、47人は討ち入りを決行、吉良を討ち取り、凱旋する。この討ち入りに対して、江戸の庶民は絶賛する。しかし、幕府の内部で意見が分かれた。すなわち、彼らは忠義の者であるから、厚遇すべきであるという意見と、彼らがしたことは法に背くことである。したがって即刻死罪にすべき、という意見だ。将軍徳川綱吉は助命したかったようだが、老中の柳沢吉保が法秩序を守るため死罪にすべき、という意見を強く唱えたため、結局死罪になる。ただし、武士の体面を傷つけないように切腹だった。足軽1人(助命された)を除き46人は見事に切腹した。

討ち入り後、吉良家は断絶したが、浅野家は500石の旗本として再興した。義士の志は実ったのだ。その後、現在に至るまで彼らの心は賞賛され続けてきた。

なお、忠臣蔵の裏には様々なドラマが隠されている。例えば、忠臣蔵では悪役とされている吉良上野介も領地では善政をしき、名君として慕われていたとか(ただし彼は領地で政務をとっていたわけではなく、領民の判官贔屓とも)、彼の子で米沢藩主(上杉謙信以来の伝統を誇る)だった上杉綱憲が父を救援しようとした時、家老が必死に巻き込まれるのを止めたため、米沢藩には何の影響もなく済んだ、とか。忠臣蔵の裏には、色々な人物が命を張っていた、というのがよくわかる。47義士ばかりが英雄視されるが、このような舞台裏の話も興味深い。

討ち入りの時、大石良雄は44歳。中年の方もまだまだ老け込む時期ではないということを示唆しているように思える。

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